ぬこのイラストブックれびゅう

ぬこのイラストブックれびゅう

雑読猫、ぬこによるイラストブックレビュー。本との出合いにお役に立てれば幸いです。

人が人として生きていける世界を切に望む「童」の物語

 

童の神

イラストブックレビューです。

 

童の神 (時代小説文庫)

童の神 (時代小説文庫)

 

 

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あらすじ

平安時代、「童」と呼ばれ、蔑まれる者たちがいた。彼らには鬼、土蜘蛛といった名前で呼ばれ、人以下であるかのように扱われていたのだ。

空前絶後の凶事とされる日食の日に、越後で生まれた桜暁丸は、父と故郷を奪った京人に復讐を誓う。そしてついに桜暁丸は、童たちとともに朝廷軍に決死の戦いを挑む。

反朝廷勢力「童」を臣下に置き、天下和同を目指すが

土着の民を「童」と称し、鬼や土蜘蛛、夷などの恐ろしげな名前を付けて、蔑む。朝廷はそうすることで、税や疫病に喘ぐ京人たちの不満を逸らしていました。

そんな「童」たちを臣下に集め、天下和同を目ざす。安倍晴明左大臣のその考えに共鳴し、自分の子を産んだ愛宕山の盗賊の長、滝夜叉姫こと皐月を介して調整します。童たちとともに朝廷を倒し、新しい世の中を目指したのです。

しかし、京の武官、源満仲の裏切りにより多くの童たちが命を落とします。皐月は、童たちの決死の防御を受け、辛くも逃げ切ります。

空前絶後の凶事の日に生まれた「禍の子」

皐月との間の信頼が崩れてしまった安倍晴明。深く傷つく中、天文博士に命じられた彼は自分に出来ることを考えます。そして起こった日食を「空前絶後の凶事」とし、罪人を解放する天赦を求めたのです。

一方、その凶事の日に越後で一人の男児が生まれました。桜暁丸と名付けられた少年は、身体が大柄で、髪は土色、瞳も光の加減によっては緑色に見えるという容姿。凶事に生まれた事、奇異な見た目から『禍の子』と言われ、周囲から恐れられていました。

「花天狗」として京の町を荒らす桜暁丸

暁丸の父親は、民を救うべく、私財を投げ打って稗粟を買い、それを配るような人物でした。しかし、京から目をつけられ、村ごと壊滅状態にされてしまい、桜暁丸は京へと逃げ落ちます。

そこから、身に付けた身体能力で検非違使や武官を狙って盗みを働くようになり、やがて花天狗と呼ばれるようになります。

自分から全てを奪った役人たちから奪い返す。そんな一念で身に付けた身体能力を存分に活かしていた彼は、袴垂という盗賊に出会います。

彼も同じように貴族などの家から高価なものを盗み、貧しい村に届けているというのです。二人は共に暮らし、盗みの成果を挙げますが、ある日袴垂の父親が処刑されるという知らせが…。

童たちと手を組み、朝廷からの攻撃を防ぐ

朝廷軍との攻防を繰り広げ、この騒ぎに巻き込まれ、帰る場所のない幼い子どもとともにこの場から脱出し、土蜘蛛たちが住むという大和葛城山へ向かう桜暁丸

首領の毱人の信頼を受けこの地で過ごす桜暁丸は、彼らから技を教わり、そして周囲の童たちと手を組み、朝廷からの攻撃を防ごうと考えます。

これが一人の一生なのか?というくらい波乱万丈です。父や師匠を殺され、見た目や住んでいる場所に勝手に名前をつけられ、人間以下のように扱われる。

京人は全て自分たちの常識ものを考え、それを押し付ける。そして土地人々全て自分たちの所有物だと思っている…。

「童」の意味を変えたい

暁丸や、童たちは武術に長けた者たちです。先祖代々の土地に住み、先人が得た技を身に付け、研鑽する。そんなふうに暮らしている彼らは京を乗っ取ろうなどとは考えていません。自分たちのものを守ろうとしているのです。

そして桜暁丸は、皆が同じ人間であることが当たり前になる世の中にしたいと考えています。今は蔑称として呼ばれている「童」の意味を変えたい。「純なる者」という意味に…。

迫力ある戦闘シーンに注目

本書の見所は、百花繚乱の技が繰り広げられる戦闘シーンです。童たちの身体能力、忍びのような技や飛び道具、地の利を使った戦法など、驚異的で見事な戦いぶり。拳を握りつつ、ドキドキしながら見入ってしまいます。

対する京人側も錚々たるメンバーです。悪の親玉、源満仲の鬼畜ぶりがすごい。そして配下の渡辺綱坂田金時坂田金時は足柄山の出身であり、生粋の京人ではありません。そうしたことからも、童との戦いに葛藤を抱えている人物でもあります。

そんな金時を見守る綱もまた、広い視野を持つ傑出した人物であり、タイミングが合えば京人と童をつなぐような役目もできたのではないかと思わせます。

時の経過とともに深みを増していく人間関係

もうひとつの見どころは、これだけ多くの登場人物が出てきながらも、変化を加えてなお深みが増していく人間関係です。特に前線に立つ桜暁丸や、童の首領たち、そして渡辺綱坂田金時

彼らは互いに人として認め合い、それでも命をかけた決戦を繰り返します。そこからはほのかに絆のようなものが生まれているのを感じます。世が世なら、良きライバルとして、仕事などで大きな成果を上げたような人物たちなのではないでしょうか。

まとめ

人が人として生きていける世の中であること。こんなシンプルな願いがありえないことだった時代。教科書に載らない、影の世界はこんなにも熱く、そして強烈な光を放っていたのです。そんな彼らがあってこそ、完全ではないかもしれないけれど今の「人が人として生きていける世の中」がある。そんなことを考えさせてくれる物語です。

 

このレビューは『nuko book』に掲載したものです。

おっぱいには未来が詰まってる

おっぱい先生

イラストブックレビューです。

 

 

おっぱい先生

おっぱい先生

 

 

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あらすじ

世田谷の住宅地に立つ、年季の入った小さな一軒家。この「みどり助産院」は産後の母親たちが、様々なおっぱいの問題を抱えてやってくる場所。助産師の寄本律子は、その大きく温かな手で、母親たちの凝り固まったおっぱいと、心を優しくときほぐす。

赤ちゃんがおっぱいを飲んでくれない

産後5日目、退院したその足でみどり助産院へやってきた和美。彼女の悩みはズバリ「赤ちゃんがおっぱいを飲まない」こと。病院では「最初からうまくはいかない」とは言われたものの、これからもおっぱいを飲めなくなるようでは困る、と考えたのです。

赤ちゃんがおっぱいを飲まないのは、理由があります。それは、助産師である律子が母親の体を整えること、母親が赤ちゃんがおっぱいを飲みやすくなるように体勢を整えたり、自分自身の体のメンテナンスをすることで解決する場合があります。

母親の焦りと自己嫌悪

それぞれが、自分のできる範囲で協力し合って、頑張ってみて「これでいい」形を見つけることが大切なのだと律子は言います。和美はネットで、母乳育児であればアトピーにならないという情報を目にし、母乳で育てなければ!と決意します。しかし泣き叫びおっぱいを飲んでくれない息子に粉ミルクをあげてしまい、自己嫌悪に陥ってしまいます。

そんな和子に対し、律子は「飲んでくれてよかったですね」と淡々と返します。完全母乳であっても、母親の体調が悪い時など、粉ミルクを飲めれば安心だ、というのです。和子の無理のない形で母乳育児を進めていけば良いのだ、とも。

助産師・律子のアドバイス

母親は出産時の緊張、体のダメージと続き、いちばん応えるのが赤ちゃんの泣き声です。産前産後のホルモンの変化もありますが、緊張や疲れが続く状態での初めての育児は、思考がネガティブになりやすく、追い詰められるものです。そんな母親たちに接するのは白髪のショートカットがキリリとした印象の助産師、律子です。

言葉は少なく、母親の様子、赤ちゃんの様子を淡々と確認します。不安になっている母親に対しては「お母さんにとって、赤ちゃんにとって、最も負担がない、心地よい形を考えてください」と告げます。突き放されたようにも感じる一言ですが、子育てに「正解」はなく、母子がこれでいい、これがいいと思う行動が、その母子にとってベストなのです。

おっぱいから見えてくる「家族」と「育児」のあり方

物語の中には、夫婦にとっての初めての子供、シングルマザー、夫が単身赴任中で三人の子を育てる母親など、様々な形の「母子」が登場します。「おっぱい」についての問題を解決するために助産院にやってくる彼女たちですが、もう一歩外側の「家族のあり方」「子供の育て方」については自分たちでなんとかしていかなくてはいけません。

助産師の律子は、そうした母子の枠内でがっちりと固まってしまいがちな母親たちの、心と体のこわばりをやさしくほぐし、枠の中から一歩踏み出して、周囲を巻き込んで子供を育てて行こうとする母親の力をつけてくれるかのようです。

おっぱいは赤ちゃんを育てるもの。そのおっぱいのこわばりや不安などの滞りを流すことで、未来へと自然と目を向けていけるようになっていくのかもしれません。

律子の役割

産後のホルモンの関係で感情が上下に揺れやすい時期でもある授乳時期。初めての出産、育児に張り切って頑張って、挫折して疲れて…。それでも「もうやだ」と放り出すわけにはいかないのが育児です。律子はそんな母親の感情の揺れを緩やかに受け止め、少ない言葉で、温かな手で労わり、見ていてくれるのです。

まとめ

思考が千々に乱れてまとまらないもどかしさや焦り、体の痛み、おっぱいを飲んでくれることの喜びなどなど…。出産経験者の方には大変だった(でも忘れちゃった!という人も多いと思いますが)けど懐かしく、愛しい日々を思い出し、感じられるのでは。

お父さんたちにもぜひ手に取っていただき、出産にまつわる女性の心と身体の変化を理解した上で、どのように育児に協力していくのか、ということを考えるきっかけになってくれるといいなと思います。

 

このレビューは『nuko book』に掲載したものです。

 

『人間に向いてない』苦しみは誰もが持っている

 

人間に向いてない

イラストブックレビューです。

 

人間に向いてない (講談社文庫)

人間に向いてない (講談社文庫)

 

 

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あらすじ

若者の間で奇妙な病気が流行していた。それは、異形性変異症候群と呼ばれ、動物や植物、昆虫などの形に体が変化するというもの。元の体や顔の一部分が残っていたりとその変化の様子は人によって異なる。

息子が突然異形の姿に

美晴の息子・優一も一夜にしておぞましい芋虫の姿となってしまった。そこから美晴の、母親として悩める日々が始まる。この病気の正体は一体何なのか。家族の愛が、人間の愛が試される。

美晴の息子の優一が、おぞましい姿に変貌を遂げる病気になってしまいました。それも子犬のほどの大きさの、巨大な芋虫。長い手の先には人間の指のようなものがあり、さらに体に沿って無数の足がついています。おぞましいことこの上ない姿です。

夫の無理解と周囲からの偏見

それでも我が子である優一の面倒をみようとする美晴ですが、夫は優一に対してあからさまに嫌悪を示します。捨ててこいだの保健所にやれだの、さっさと見限ってしまえと言わんばかりの態度です。

この病気にかかると、治った事例がなく、その見た目のおぞましさなどから親が子供を殺してしまう例が後をたちませんでした。そのため病気になった子供に対して死亡届を出すことが認められてます。

また、ニートがこの病気にかかると言われており、そのことも世間の偏見の目が向けられる原因となり、家族を一層苦しめるのです。美晴の夫、そして義母までもが芋虫になってしまった優一に冷たい目を向け、息子を捨てるように言ってくるのでした。

同じような立場にある親たちとの出会い


美晴は、子どもがこの病気になってしまった親が集まる場があることを知ります。そこには木や犬、ネズミに魚など様々な形に変化した子どもたちの様子や、共に生活することで起こる家族の苦労などを知ります。気の合う人物とも出会い、ひとときの心の安らぎを得るのでした。


差別や偏見に満ちた目で優一を見る夫に対し、美晴はこれまで自分がどのように優一へ接してきたのかを振り返ります。子どもの頃の優一はどんな様子だったか。本来どのような性格だったのか。彼は何を望んでいたのか。

夫との決裂

意見の合わない夫との間で決定的な出来事があり、美晴は優一と共に家を出て、実家の母のもとへ身を寄せます。優一のことをこれまでと同じように接してくれる実母へ、感謝と愛を強く感じ、わが子を守っていくのだと改めて感じる美晴でした。

異形となってしまった者たちと家族の苦しみ

社会にうまく馴染めず、家から出ることが困難になってしまった子どもたち。ただ生きているだけで、外に出るだけでも苦痛を伴う状況なのに、さらに追い討ちをかけるように目を背けたくなるようなグロテスクな何かに変化を遂げてしまう。当人にとっては苦痛以外の何ものでもない出来事でしょう。もちろん、同居する家族にとっても。

まとめ


社会に適応できない、己の価値観を押し付け他人の気持ちを分かろうとしない、他人を愛することができない。だれもが「人間に向いてない」部分を持っています。自分を、相手を認め、共に生きていく決意があるか。この奇病は、まるで神様がそうした試練を人間に与えたかのようです。


弱い者も強い者も、戦う者も戦えない者も、互いがいるから己に気づき、相手を思うことができる。その気づきは大きな苦しみを伴いますが、何ものにも変えがたいものを得ることができるのです。グロテスクな描写と家族の苦しみを描きながら、「生きていく」とは、「家族」とは何なのだ、と深く考えさせられる物語です。

 

このレビューは『nuko book』に掲載したものです。

納豆でつながるアジアの歴史と文化

謎のアジア納豆:

そして帰ってきた〈日本納豆〉

イラストブックレビューです。

 

 

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あらすじ

ミャンマーの奥地で納豆卵かけご飯に遭遇。タイ、ミャンマー、ネパール、インド、中国、ブータンラオスなど、アジアの広い範囲に渡り、納豆は存在している。それも、日本納豆とは違って乾いた煎餅のようなものであったり、同じように生で糸を引くもにであったり、形状も、調理方法や食べ方も様々だ。このアジア広域に存在する「アジア納豆」から民族の歴史や文化、文明論までに行きつく。未知の納豆ワールドへの道が今開く。

タイ北部での納豆は「トナオ」

冒険家、そしてノンフィクション作家である著者が納豆の謎に迫ります。

妻と愛犬マドと共にやってきたのはタイ北部の中心地であるチェンマイミャンマー最大の少数民族であるシャン族の店で納豆が出されます。納豆はシャン語では「トナオ」。まるで日本の「ナットウ」をひっくり返したかのようでびっくりします。

トナオの食べ方と種類

シャンの納豆、つまりトナオは薄焼きせんべいのような形をしており、火に炙ったり、軽く揚げて塩を振って食べます。大豆せんべいですね。大豆の香ばしさが漂ってくるようで、思わず唾をのみこんでしまいます。ビールのつまみに合いそう…。

シャンのトナオには3種類あります。
①トナオ・ケップ  せんべい状の納豆。
②トナオ・サ    糸引き状の納豆。日本の形状と同じ。
③トナオ・ウ    ブロック状の納豆。

①は焼いたり揚げたりして食べる他は、砕いて煮物やタレに入れたりと調味料として使うこともできます。②は、油や香菜などを入れて食べ、③は主に調味料として、削って使うのだそうです。納豆の旨味が調味料として活躍する、いわゆる料理の「味の素」なのだそう。日本においての味噌や醤油にも似た部分あるのかもしれません。

トナオの作り方

トナオ作りをしているお宅へ。大豆を茹で、穀物などを入れるプラスチックの袋へ茹で上がった大豆を入れて二日放置。おそらく袋に納豆菌がついていて、発酵するのでは、とのこと。機械で平べったく伸ばし、天日干しして完成。

こうしたシャン族のトナオからはじまり、ミャンマーのチェントゥン、タウンジー、ミッチーナ、ネパールのパッタリ、中国の湖南省などの各地を訪れ、納豆を食し、作り方を見たり学んだりしていきます。

手前味噌ならぬ手前納豆にチャレンジ

手前味噌のように自分たちで納豆を作る人々の姿をみて、自分たちで納豆を作ってみようとチャレンジ。シダ、ヨモギ、ススキ、そして比較対象のためにワラも使い納豆作り実験を行います。

著者も文中で述べていますが、日本人は納豆と言えばワラだ、と思っていて、それ以外考えられないのです。アジアではそこらへにある葉を使って納豆を作っているところも多くあります。そして、わら以外にも納豆菌は存在しており、納豆を作ることは可能なのです。もちろん納豆作りに向かない葉もあります。この辺りの失敗もユーモアある筆致で描かれています。

日本の納豆についても取材

日本における納豆発祥のルーツを求めて東北へ向かい、取材をしています。訪れた秋田県では、お正月に納豆汁を食すのだとか。そしてお雑煮は食べない…ってホントですか!?

納豆が作られる仕組み、納豆がいつ頃できてどのように伝わり、どのように変化していったのか。発酵や環境など納豆そのものの科学的な調査・分析から、その土地の文化や暮らし、民族の歴史まで、納豆を知るための取材は壮大な広がりを見せてくれます。

納豆はアジアの心のふるさとだ

面白いのは、日本の納豆アジアの各地に持参すると、現地の人が「トナオと同じだ!」と言うこと。味は違っているのに、大豆が発酵した食物というのは、それを食す人々を包み込む懐の深さがあるようです。

アジア納豆が存在する地域は海側よりは山側の場所が多く、奥地へ行くほど静かで微笑みをたたえているような、日本人と似た気質の人々が多くいて、そんな場所でアジア納豆が食べられているということに不思議と愛着を感じてしまいます。
納豆好きな人々は皆穏やかでいい人なんじゃ!?そんな思い込みすら感じてしまうほど。

まとめ

とにかく文章が上手く、納豆の謎神秘さ、そしてアジアの奥地と納豆との関係など、ユーモアを交え、グイグイと引き込みながら読ませてくれます。『夏休みの自由研究のような』と著者はのべていますが、実に壮大なロマンを感じるノンフィクションです。納豆からアジアの文化と歴史を知り、まだなお謎の部分を残す神秘的な納豆。納豆への認識が変わる一冊です。

 

このレビューは『nuko book』に掲載したものです。

世界的な感染症が起こった時の「もうひとつの日本」の姿

首都感染

イラストブックレビューです。

 

首都感染 (講談社文庫)

首都感染 (講談社文庫)

 

 

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あらすじ

中国でサッカーワールドカップが開催。世界中が湧き上がる中、中国のある地域で致死率60%という強毒性のインフルエンザが発生した。中国側が発表を引き伸ばそうとする中、都内の内科医である瀬戸崎優司は、いち早くその情報を掴む。元WHO職員で、感染症対策のプロフェッショナルであるという経歴から内閣の新型インフルエンザ対策本部のメンバーとして呼び寄せられた彼は、人類の今後を左右する感染症を止めることができるのか。

医師・優司が抱く過去と現在の姿


元WHO職員の優司は、勤務していた頃5歳の娘をインフルエンザ脳症で亡くしました。第二子を妊娠中だった妻は流産し、二人の子供を一度に失くしてしまった夫婦の仲は修復できないほどに壊れてしまいました。

離婚し日本に戻った優司は、友人の紹介で病院の内科医に勤務。アルコールか睡眠薬がないと眠れない日が続き、アルコール依存症寸前の状態です。しかし、WHOでの感染症対策の経験を活かし、感染症に対する病院の対応をマニュアル化、医師や看護師などのスタッフへの教育などを徹底して行い、病院内でも評価を得ていました。

一度流行したインフルエンザは弱毒性のものだったが

世を騒がさせた新型インフルエンザは、豚型であり、毒性も弱く、死亡率も通常の季節性インフルエンザと同等のものでした。国の対応などはむしろ大袈裟すぎたのでは、という世間の空気もあります。そんな中、中国で不穏な動きがあることを優司は知ります。

中国で危険なウィルスが発生

WHOに勤めている元妻に電話してみるも、中国側からの公式発表がないため、WHOとしてもどうすることもできないのだと言います。ただ、豚型ではなく、鳥型が変異した新型インフルエンザが中国の村で発生していること。数千人規模の死亡者が出ており、いくつかの村は壊滅。軍隊などにより、村から人が出入りしないよう制圧をかけているらしい、ということがわかります。

国内での感染対策を開始

元妻の父親、厚生労働大臣である高城から、新型インフルエンザの対策室メンバーとして参加してくれないかとの要望を受けます。引き受けた優司がまず最初に行ったのは、中国からの帰国便の乗客を全員隔離する、ということでした。

国内外の多くの批判を受けながらも世界の中では圧倒的に低い発症者数に抑えることができますが、検疫が破られ都内にも患者が発生。そこから首都封鎖へとコマを進めていきます。

視野の狭い議員たちの意見にあ然

まずは対策会議における大臣たちのウィルスに対する認識の甘さ、経済活動がストップすることへの懸念、自分たちばかりが助かろうとする意識などが明らかになるにつれ、こんな人間たちが国の舵取りをしているのか?と頭を抱えたくなります。実際の日本もこんな感じなのだろうな、とも。

首都封鎖は何のために


感染はそのスピードを加速させ、感染者と死亡者の数は右肩上がり。それでも世界各国に比べ、日本におけるその数が圧倒的に少なく済んでいるのは、早期の感染者の隔離や例外を一切許さぬ首都封鎖のためです。それには国民それぞれの理解と忍耐が必要となってきます。

狭い視野は当然国民の中にもある


しかし、自分だけは助かりたい。自分の家族の様子が知りたい。封鎖された東京だけがなぜ犠牲にならなくてはならないのか、と声高に叫ぶ人間たちが多く出てきます。一人の例外もなく東京から出ないこと。それが日本が生き残るためにやらなくてはならないことなのです。

総理大臣の意志と決断力

瀬戸崎総理大臣は、優司の父親でもあります。彼はこの国民と議員たちの不満を一身に受け、決意を持って感染を止めることに全力を尽くします。現場の調査・対策が息子の優司、決定・指揮が総理大臣と厚生大臣の高城という形です。

この政治家たちは政治のための政治ではなく、国民を守るための政治をしていますし、優司も人の命を救うための、医者の立場から感染対策の仕組みや体制を構築していきます。どちらも命を守るという使命を持って動いているのです。

ワクチンが出来上がるまでが勝負

対応できるワクチンがいつできるのか。
ギリギリまで追い詰められた医療スタッフたちが崩壊するまでに手にすることはできるのか。

人類の未来がかかったこのウィルスを封じ込めるために、多くの人々が身を粉にして取り組んでいきます。ワクチンを開発した会社がその製造方法を惜しみなく公開するところに、私利私欲を超えた、助け合っていこうという精神が伝わり、人間もまだ捨てたものではないな、と感じます。

まとめ

この作品が10年前に世に出たことに驚きを感じます。そして、今回のコロナのような悪性のウィルスが発生する可能性があること、そして日本という国がどんな対策を取るとどうなっていくのか、ということを知るためにも、国民の教科書として本書を読んでおくといいかもしれません。というか、かえって今回の日本の対応を振り返ってガックリしてしまう部分もあるかもしれませんが…。

 

このレビューは『nuko book』に掲載したものです。



 

 

老人が指さした先にあるものとは

天上の葦

イラストブックレビューです。

 

天上の葦 上 (角川文庫)

天上の葦 上 (角川文庫)

  • 作者:太田 愛
  • 発売日: 2019/11/21
  • メディア: 文庫
 

 

 

天上の葦 下 (角川文庫)

天上の葦 下 (角川文庫)

  • 作者:太田 愛
  • 発売日: 2019/11/21
  • メディア: 文庫
 

 

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あらすじ


渋谷のスクランブル交差点で、一人の老人が空を指さした後に絶命した。
興信所を営む鑓水と修司のもとに、老人が最期に見たものは何だったのかを突き止めれば高額の報酬を払う、という依頼が舞い込む。

一方、この老人が亡くなった日に、一人の公安警察官が姿を消す。停職中の刑事・相馬は非公式にこの男の捜索命じられる。二つの事件の先には何が潜んでいるのか。

小さな興信所に舞い込む奇妙な依頼

大手興信所の下請けをしながら何とかやっている興信所の、たった二人従業員・鑓水と修司。その二人のもとに奇妙な依頼が舞い込む。それは、渋谷の交差点で天を指さし、亡くなった老人・正光が指の先に何を見ていたのかを調べてほしい、というもの。

期限は二週間、報酬は何と1000万円。しかも依頼者は鑓水たちと過去に一悶着あった相手。若い修司は反対しますが、サラッと受けてしまった鑓水に、どうやら事務所存続の危機に至るような借金があることを知ります。そして、この報酬金でその借金を返済しようとしていることも。

行方不明の公安刑事を捜索することになった相馬刑事

一方、鑓水たちと食事をしようと興信所に向かっていた停職中の刑事・相馬は、公安の前島に呼び出され、彼の部下である山波を捜すよう命じられます。公安内部でも問題になるとまずいということ、そして交通課に異動となった相馬を刑事課戻してやる、という条件に、相馬は山波を探し始めます。

亡くなった老人・正光という人物


鑓水と修司は正光の足取りや過去を調べはじめます。戦後産科医となり、長く現役として活躍していたが、数年前に引退し、施設に入居していたこと。死亡した日は外出し、どこかに向かっていた、あるいは向かった場所からの帰りだったということ。そして、どうやらテレビ局の社長に会いにいったようだ、ということを突き止めます。

行方不明の公安刑事・山波の足取り

山波の周辺や足取りを調べはじめた相馬は、彼が新たに始まる報道番組のキャスター・立住の周辺を張っていたことを知ります。そして何者かに襲われ、満身創痍の状態で逃げているらしいという事も。相馬自身も、公安がいったい何をしようとしていたのか疑問を持ちはじめます。

遣水たちがたどり着いた瀬戸内海の小島

正光の産科医以前の過去、山波の足跡から瀬戸内海の小島にたどり着いた三人は、正光に葉書を送った人物をさがしはじめるのですが、島の人々の対応はなかなかに厳しく、それだけ何か隠さなければならないことがあるのではないかとの予感も抱かせます。

山波が島へやってきた日に起こった出来事を推理し、村の老人に話した鑓水。そこで老人たちは、正光の過去や自分たちの過去について話しはじめます。それは鑓水たちが生まれる前、戦時中のことから一連の出来事は繋がっていたのです。

老人の死と公安刑事の失踪が繋がるとき

戦争を経験した産科医の過去から現在までの歩み。
日本という国を、外から見る視点を与えたいと考えるキャスターと製作側の意向。
公安と報道、政治家の関係とそれぞれの思惑。

目の前の利益に囚われた人間たちと、日本という国家の未来を守りたいという人間たちとの戦いの物語です。間に入った鑓水たちが、それぞれの背景と目的、行動の理由を明らかにしていきます。

まとめ

調査を続けるうちに終われる立場となった鑓水たちの緊張感ある逃走劇、その緊張を弛緩させるような鑓水の愛嬌ある言動など、絶妙なバランスを持ってテンポ良く物語は進んでいきます。上下巻というボリュームながら、その長さを一切感じさせません。


日本という国が幸せな国であるということ。その幸せな国がふとしたきっかけで坂を転がるような事態に陥ってしまうことがあるということ。それは、戦争を経験した人間たちだからこそ、幸せを強く感じ、絶望に向かって回り出す歯車を、何としてでも止めようと力を尽くすのかもしれません。

報道が持つ力とそのあり方、そしてそれを誰が動かしていくのか。報道というものについて改めて考えさせられる物語です。

 

このレビューは『nuko book』に掲載したものです。

冷戦下のベルリンと現代アメリカから浮かび上がる壮大な謎

 

隠れ家の女

イラストブックレビューです。

  

隠れ家の女 (集英社文庫)

隠れ家の女 (集英社文庫)

 
 
 
 

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あらすじ

ベルリンの壁が崩壊する前の東ドイツで、CIAの職員として働いていたヘレン。彼女の仕事は、スパイ活動に使われる数件の隠れ家を管理すること。ある日、この隠れ家で意味のわからない会話を耳にします。同じ隠れ家で、別の日にはCIA職員によるレイプを目撃してしまったエレンは、上層部に訴えかけるが逆にクビにされてしまいます。身の危険を感じたエレンはパリへ逃亡をはかるのですが…。

35年後、エレンは死体となって発見される

35年後、アメリカの片田舎で夫と息子とともに暮らしていたエレンは、夫とともに死体となって発見されます。そして、息子のウィラードが二人を撃ち殺した疑いで逮捕されています。

ウィラードの姉・アンナは一人で暮らしていましたが、弟が犯人であることに納得が行かず、探偵のような仕事をしているというヘンリーに真実を探るよう依頼します。ヘンリーもまた、別の依頼人からエレンを見張るように依頼されていたのでした。

物語の構成と重要な鍵

エレンがCIAの職員として働き、逃亡していた時代と、娘のアンナが母の謎を追う二段構えで物語は進んでいきます。なおかつ、エレンが握っていた秘密は隠れ家で聞いた謎の会話と、レイプの証拠である音声。この二つの録音テープがエレンが狙われている理由であり、彼女の命を左右する重要な鍵となります。

当時のエレンに協力した人物たち

エレンには数人の助っ人がいました。年の離れた恋人であり、伝説のスパイとよばれた、同じCIAの人間であるボーコム。彼は何度となくエレンに忠告を出しますが若いエレンには聞き入れることができません。


そして、情報提供者が弱い立場であることを利用して、レイプを繰り返してたCIA職員のギリーを告発するために、エレンに協力し、脱出の手助けをしていた同じCIA職員の二人の女性。彼女たちはCIAらしく慎重に、かつ的確に指示を出し、エレンをフォローしていきます。

母・エレンの過去を知り驚くアンナ

そして現代では、発達障害のある弟が両親を射殺したことは信じられないと、アンナとヘンリーは二人で実家の中を捜索し始めます。

そこで発見したものから、田舎で慎ましく暮らしていたとばかり思っていた母親が、別の名前を持ち、かつてCIAで働いていたことがわかり、アンナは衝撃を受けます。そして、母親がかつての仲間とのやりとりに使っていた私書箱の手紙などから少しずつ過去の事件の概要が明らかになっていきます。

現在と過去との関連とは

過去と現在、当時の二つの謎と現在の出来事との関連、その謎が判明することで、登場人物たちにどのような影響を及ぼすのか。敵は誰なのか、そして味方は?複雑に絡んだ謎がひとつひとつ明かになっていくたびに、驚きと感嘆の声が出てしまいます。

息をもつかせぬ展開の逃走劇と事件の謎

エレンの逃走劇では、スパイらしい洞察力や判断力に感心し、迫りくる追手の無情さやエレンに対して持つ圧倒的な力量の差に焦燥感と緊張感が漂います。当時のCIAでも女性に対してスパイ教育はされたようですが、事務方に配置され、実戦とは程遠い仕事を任されていたエレンは、敵方からはなめられていたようです。


そこを利用して、当時逃げ切り、敵と取引を交わした結果、一度は終焉を迎えたように見えた事件が再度息を吹き返してきたのはなぜなのか。

まとめ

600ページというボリューム。謎に次ぐ謎が降りかかってきますが、読者に飽きさせることのないスピーディーな展開と、スパイたちのクレバーな立ち回り、恐怖を抱えながら必死に頭と体を動かすエレンの姿に、ページをめくる手が止まりません。


CIAで力を持つ人間という、圧倒的な立場の人間との戦い。絶対的権力にひれ伏すことなく知恵と勇気で立ち向かい続けたヘレンと女性たちに、驚きと称賛を感じずにはいられない、そして当時の秘密組織というものが仔細に描かれているという点も興味深い、読みがいのあるミステリーです。


このレビューは『nuko book』に掲載したものです。

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